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人は誰でも美しくありたい。私だって。

年々失われていく若さを差し引いても、自分の姿形を好きでいたいから。ところで、What is beauty?
顔のつくり?体のシェイプ?ヘアスタイル?ワードローブや身のこなし?

Webster’sという、日本の広辞苑に当たる辞書をめくって見るとこうある。
「美とは、崇高な喜びを、感覚や心に与えるものである」そしてその高尚なお言葉の後に「Good looking-見掛けが良い」と来る。さすがアメリカ。


それではそのGood lookingとはどこから来るのか?


インドの古い詩の中で、理想的に美しい女性を表現するのにこうある。“満月のような顔”、“象のような腰”、“大蛇のごとき首”、“蓮のような目”、ってどんなんじゃい!?子供を10人ぐらい産んでも「まだまだいけるわよ!」的に健康な女性が美しいとされた時代なのか?

確かに、アフリカのある部落とか、アマゾンの森林に住む原住民達はもっと土俗的な価値観で生きている。しかしそれらを除けば、誰が見ても「あの人綺麗よね〜」と、ため息をつく感覚は、世界中ほぼ共通するのではないか。そうでないとMs Univers選ぶの大変だもんね。

しかし時代、時代のカルチャーにものすごく左右されている部分もぬぐえない。マスメディアや広告が作り出すイメージは、時としてそのまま“美”の手本となってしまう。“正統派美人”という言葉があるように、定番的美しさの他に、社会やカルチャーを反映して生まれた“美“というものがどの時代にも必ず存在するのだ。


この間読んだ記事に、時代のセックスシンボルについて語っていたものがあったが、その昔のマリリン・モンローと、現代はケイト・モスを比較していたのには驚いた。私の中では、マリリンの(名前からしてふんわり、まろやかで、ぷるるんって感じがするのがすごい)あの舌足らずな喋り方やちょっとハスキーな声、自分の持ってるものを良く知り尽くしたからできるようなしぐさからして、人はいろいろ好みがあるという前提を置いても、彼女がその時代のセックスシンボルであったというのは納得がいく。でもケイト・モス〜?!って思うのは私だけか?ファッション的な彼女の魅力は私も共感する。しかし、どっからどう見ても鬱持ちの、栄養の偏りが見え隠れするあの姿に、もしもセックスを見るとしたら、それはかなり倒錯したものに思えてしまう。

やはりそれはあらゆる広告やファッション雑誌が作り出した彼女のイメージが、現代の“かっこよさ”というフィルターを作り上げた結果ではないか?私自身は、というと、ひとつの現代アート鑑賞的に、彼女には十分楽しませてもらってはいるのだが・・・それでは、「本当の美って何だ?」



それはけっして、アメリカ流にいうならば、①正しいメイクアップ②正しいワードローブ③正しいパーソナルトレーナー、そして、それだけではおっつかなくなってきたら④正しい美容整形、などだけで作られるものではないと思う。それは助けにはなるだろうけれど、「崇高な喜びを感覚や心に与える」ことはできないだろう。

この人生で出会った数々の美しい人たちを思い出すと、それは決して顔立ちだけではなく、スタイルの良さだけではなく、着ているもののかっこ良さだけではなかった。全体的なバランスと、その人自身から発散される、オーラみたいなものから受ける衝撃で圧倒される。そういうものなのだ。

それはいったい彼女、彼らのどこから来ているのだろう?その人の自分に対する自信?だとしたらその自信はどこから来て何に支えられているのだろう?


私が過去に知る女性の話をしちゃおう。

まずは誰がどっから見ても正統派美人のA子さん。すらりと背も高く、性格も穏やかで、もてるんだろうなぁ、と思うと、そっちの方は全然。なんで〜?!それはまさに、彼女の自分に対する自信のなさゆえだった。口癖は「私なんか・・・」話を聞くと子供の頃に学校の同級生や実の姉に「ブス」「のろま」などどいじめられてたらしい。私が思うにそれはやっかみか、男の子の好意の裏返し以外の何ものでもないと思うのだが、やはりもともと自信がなかったのか彼女はそれを真に受けてしまい、それが心に根深く刺さったまま大きくなってしまった。すると、たとえ「美人だね〜」と言い寄られても、その相手に何か良からぬ下心があるのではないかと疑ってしまい、思いっきり引いてしまうのだそうだ。そしてまた、「私なんか・・・」と自分の不幸を自分に納得させている彼女は、全く美しくなかった。

反対に、贔屓目に見て、愛嬌はあるとはいえても決して美しい顔立ちではないB子さん。ところが私が知る限り、彼女にはいつでも彼がいて、その彼がいつでも「うっそー!」てくらいの男前。もちろん人柄も良く、おまけに彼の方がぞっこんって感じ。このB子さんに関しては、①いつでも笑顔が耐えない②いつでも前向き③他者に依存しない、の3本立て。やはり彼女は自分に自信のある人なんでしょうなあ。



フェミニストのライター、エレン・ゼッツェル・ランバートはこう言っている。「美しい顔というものは、その人自信が形作られたものである。もしくは愛によって描き出される」

ある日彼女は、子供の頃、実の母親を亡くす前に撮ったいくつかの写真を見直して愕然とした。そこに写っていたのは、自分とは思えない醜い顔をした少女だった。笑顔のゆがみや表情の不自然さに、彼女はその頃抱えていた不安や悲しみ、そしてそれを、一緒に住む継母に悟られまいと取り繕った心の葛藤をまざまざと思い出した。


心、そして思考はとても大切だ。それらで私たちの健康や美、もしくは私たち自身が作られているといっても過言ではない。心と体の医学およびウェルビーイング分野における世界的な第一人、ディーパック・チョプラ氏も言っている。「脳の化学物質を自らトレーニングすると思いなさい。自分は幸せなのだという思いを、体中の細胞に送り込みなさい。すべての細胞がその幸せに呼応するまで」

インドのタントラで言われる“健康”に3つのことが謳われている。①薔薇色に染まる頬②火の粉を散らしたように輝き燃える瞳③光り輝く髪。そしてこれらは、心がリラックスして幸せである証拠だという。

確かに人間、恐怖や不安を抱えていると、脳内でアドレナリンが放出され、それは腎臓にダメージを与える。その結果、体は脱水症状を起こし、肌は当然乾燥し、瞳、髪、全ての潤いがなくなってしまうのだ。マリー・アントワネットではないが、恐怖の元に一瞬にして老婆になってしまうのも嘘ではなかろうと思う。

となると、本当に美しくなるためには、幸せを自分自身に浸透させていかなければならないということか、ってちょっとスピリチュアルトークっぽくなってきてしまった。個人的には好きなんですけどね、こういう方向。



アユールヴェータを使った皮膚医学で著名なプラティマ・ライチュア氏も言っている。「女性は美しいから幸せになれると思っている人が多いけれど、それは反対です。幸せだから美しい。まして美しさとは人を誘惑する為の道具ではなく、恋に勝利するお守りでもありません」派手系美人でいっつもモテモテのC子さん、でも結果が散々なのはそういうわけか?

自らに幸せを浸透させる。しっかりと心には留めておこう。しかし今、そこに選択があるのなら私は美を吸収することを否めない。それは、一番手っ取り早いので化粧品。そして食事。心の栄養となる、恋や芸術鑑賞。この間You Tubeしたら、ピンクのオーラを食べて若さを保っているという女性がいたが、そういうものが見えるのならそれもありだとさえ思う。思い込みは自分を創造するのだ。

そしてしっかりと自分を見つめて、その自分を受け入れること。私は私、ケイト・モスではない(って似ても似つかないが・・・)自分を知らなければ、正しいメイクアップはできないしワードローブも選べない。健康的な恋愛だってできないんだから。そういう基本的なことがしっかりできてくると自然に自信もついてくる。もうオブジェクティヴに走りがちなマスメディアに翻弄された結果、痛ましい自分を世間にさらけ出すこともなくなる。


確かにこの現代、今まで不可能であったことの多くが可能になってきた。お金さえあれば永遠の若さを保てる魔法の小瓶を手に入れることができ、過去に死の病といわれたものからも、小さなピルによって開放されてきている。化学の発展の下で、人々は本来の現実に目を向けることなく生きていくこともできる。

別に良いではないか、70のおばあさんになっても、自分の顔に皺を見ることなく生きて行ったって(できればそう有りたいと思ってる私)。死の宣告いの代わりに、病と共存して行く方法を取ったって。ただし医学の進歩が進めば進むほど、新しい奇病が生まれてくるのはなぜだろう?人間が、若さを保ちながら長生きして行く中で、死に急ぐ若者が大勢いるのはなぜだろう?

もしも“本当の美”イコール“愛、幸せ”であることを、私たちがしっかり理解できていれば、そしてそれを実践していれば、何かが根本的に変わってくるのじゃないかとも思う。ほんの一瞬天国を垣間見るために麻薬を取って、その後の長い現実を地獄にしてしまう事もないだろう。努力して自分と向き合う代わりにナイフを手に取る事もないだろう。



私は自分のために美しくありたい。でももしそれが本当の美しさとなれば、他人の心に崇高な喜びを与えられるのだとしたら、それほどすばらしいことはないと思う。

そしてその美しさは、加齢と共に失われるものでもないとすれば、時間をかけてでも磨き上げて行きたいと思う。

 




ブラボー! Satomi!!


とってもお久しぶりでした。 Satomi が送る column from NY*


2010.3.31 column from NY*  








 






もう8月ですね〜
お久しぶりです。 不況下のNYでたくましくサバイブする Satomi が送る column from NY*




 私の古〜い記憶によれば(日本を離れて18年経ってるので、古すぎたらすみません)化粧品を買う時は、まずTVや雑誌のコマーシャルを情報に、デパートや商店街にある小売店(店によってはコーセーとカネボウも置いてますよ、てのもあったが、大体がワンブランドだった記憶)へ足を運んだ。  。それは確かに古い。。。

あまりサンプルもなくて、モデルとなるのは資生堂エトセトラから派遣されている販売員のお姉さん達。かなり激しい化粧のせいか、実は族上がりが多かったせいか、つい引いてしまう自分がいた。もしかしたら、「試してみます〜?」なんて、フリーメイキャップを進められてたのかもしれないが(記憶にないだけで)、実際試したことは一度もなかった。

そのくせ、へたくそなのかそれともそういう顔なのか、自分でメイクすると、思いっきりニューハーフ顔になってしまうため、女を証明する為にも、口紅だけで済ますようになってしまった。

 


そんな私も、40うん才になれば薄化粧ぐらいしたくなる。年を取ると何故か人の顔は薄くなるのだ(森田健作さんを見よ。今はあっさり醤油顔だが、アイドルだった若かりし頃は鉞担いだ金太郎張りの濃さだ)今だったら多少目じりにラインを入れてマスカラ塗ったって、もう「本当は男なんでしょう?」なんて、ちょっと酒が入った後に言われたりしない。

そうして初めて知った。ファンデーション、アイシャドウ、マスカラ、チーク、そして口紅、人それぞれが微妙に違う色素を持つゆえに、付けてみないと分からないのだ。目で見て「あ、この色可愛い!」なんて、買って付けてみたら何か顔色悪・・・ってことはよくある。

そう言う意味で、最近のNYのコスメショッップはかなりいけてる。豊富なサンプルと、プロのメイキャップアーティストのフリーデモンストレーション。ただし押しには決して弱くないニューヨーカーならではだが、沢山の情報と奉仕(フリーなんとかの全て)の裏にある「だからこれ買いなさいよねぇ」も、うまくかわせる。

でも実際、プロにメイクをされると、目から鱗的テクニックはもちろん、客観的に自分の顔にアプローチしてくれるので、かなり新しい発見があったりする、したがって何やら買っていくことにはなるのだろうけれど。

 


じっさいNYの化粧品売り場で働く人たちは、ちゃんと学校を出て、資格を取った、プロのメイクアップアーティストだ。そしてそれが結構大変。

Aveda Instituteにもコスメティック課があった。私達エステオロジィ課も医学をメインにした沢山の単位を取らねばならなかったが、彼らの必須はその1.5倍だった。そして卒業後は、いつか華々しく業界で羽ばたくために、まずは武者修行的にどこかのコスメブランドで専属の店頭販売員になる。でもここで毎日、沢山の様々な人種の素人さんの顔(モデルさんみたいに、化粧しなくても全く問題ではない顔ではないという意味で)をメイクすることはかなり勉強になるという。

そして私達消費者側がそれを利用しない手はない。彼らは単にその商品に関する知識だけでなく、かなり専門的な知識も持ち合わせているはずなのだ。

 

NYのデパートに行ったことがある人なら分かるだろう。Macy's、Bloomingdale's、Bergdorf Goodman、Saks Fifth、その1階の殆どを占める化粧品売り場は殆どパーティー会場だ。音楽あり、コスプレあり、ゲイの方が多いせいもあって、そのエンターテイメント性には脱帽する。しかしそこに足を踏み入れるのには、ある程度の覚悟がいる。なぜなら彼らは、私達をほおって置いては絶対にくれないのだ。


私は個人的に、どれが新色だろうが、どれが今の流行だろうが、あまり興味がない、自分の好きな色で、自分の肌に上手くなじんでくれる色と質感が欲しいだけなのだ。

そんな中、もうかれこれ9年くらいは立つだろうか、フランスからSephoraというコスメショップがやって来た。もともとは1969年パリに開かれたショップに、1997年、LVMH(ルイ・ヴィトンとモエ・シャンドン、そしてヘネシーが一体となって運営してる企業組織)が介入して、瞬く間に750もの店舗を21の国に開店して行ったもの。ディオール、エステェーローダー、ランコムなどの高級ラインを含める250ものブランドを揃え、スキンケア、メイクアップ、香水と、美容関連全般をカヴァーするセレクションから成り立っている。調べてみたら、日本は残念ながら2007年には撤退していた。なんでだろう?

 

さて、Sephoraのどこが好きかと言うと、豊富な品揃えプラス豊富なサンプル。殆どのものが店頭で試すことが出来る。それ使用にあちらこちらに鏡、コットン、綿棒など備品も備え付けてあって「どうぞご自由に」的な雰囲気が良い。そして「必要な時にはいつでもヘルプいたしますよ」という距離を持って見守ってくれる店員。ここへ立ち寄り、フルメイクを済まして帰る人も少なくない。私も出先でいきなりデートの予定が入った時なんかは、ちょっと立ち寄り化粧直しなんかしちゃう。でも結局それで気に入って購入もしてしまったりするから、ちゃんとビジネスになっているのよね。

 

あらゆる情報が世界を駆け巡るこの現代。人々は広告に惑わされず、自分の手でしっかり確かめて商品を買う時代なのだ。

これは余談だが、最近増えているオンラインショッピング。はまってる人たちに聞くと、やはり購入する前に、お店に行って実際のものをチェックしてから買うことが多いそう。それだったらその時買っちゃえば・・・って思ったら、どうやらオンラインのほうが安ったりするらしい(人件費と在庫処理、そして都会に店舗を構える維持費がない分、安くなるんだろうなあ)

そのうちショップはサンプル展示場になってしまって、お買い物は全部オンライン!なんて日が来たりするんだろうか?

 



2009.8.4  NY在住18年 Satomi が送る column from NY*









行ってきましたカンクーン。初めてのオールインクルーシヴ、リゾートスパ。
ちょっと前の私だったら、ホテルの敷地内で全部お膳立てされている、このような旅は邪道!と一喝で却下していたところだけれど、やっとの思いで取れた、たった4日間の旅でアドヴェンチャーする心と体の余裕もなく、とにかく目的は、のほほんと癒されること!と迷わず決めた。




ああ、考えてみれば2月の半ばからずっと週2日以上の休みはなく、ホテルの中にあるレストランのため祭日等も一切無視され働いてきた。
私にとっては夢のヴァケーション、ホテルの名前もそのまま“ドリーム・カンクーン”!
飛行機代、ホテル宿泊代、ホテルの敷地内にあるあらゆるレストラン、バーでの飲食、ルームサーヴィス、全て込みで日本円にして15万円くらい?
限られたチョイスの中で生活することは脳みそを悩ますこともなく、ストレスに侵されることもなく、豪華な療養所生活(おまけに私はいたって健康)って感じの単純さが魅力。それに私の目的はなんと言ってもスパ。
その辺がしっかりしていて、スパ料金だけは含まれず、その料金自体も、格段物価の安いメキシコでありながらNYと一緒!
でも良いのだ、とにかく気持ちよく美しくなって帰れれば。




行きの飛行場での搭乗ゲート変更。ラウンジでリラックスしすぎてアナウンスを聞き逃し、ゲートにたどり着き押し問答の挙句、もう閉まっているコックピットを開けてもらい搭乗。しかしその直後、朝っぱらからの激しい雷雨に見舞われ離陸を1時間も延長。
なんて珍道中の果てにたどり着いたカンクーンの飛行場を出ると、思ったとおり、やしの木がたわわに実を生らして私たちをお出迎えしてくれた。
そして空。カラー写真のそのまた上に着色を施したような青を天に仰いで、前日2日間の睡眠不足もぶっ飛ぶくらい、癒された!





お迎えのシャトルバスに揺られること20分。着いたわれらの楽園、ドリーム・カンクーンは、多少、パンフレットの写真と違うところはあったが、まずまずの作り。ただ、旅行代理店で念を押したはずの“子供お断り”はなんだったのか、そこにもここにも家族ずれが、プールは子供の歓声でわきあがっている・・・?
取り合えず片目をつぶりつつオーシャン・ビューの我が部屋へ!
途中大きなプールにいるかが5.6匹いて、「いるかと泳ごう!」と言うホテル企画なのだろう(後でチェックしたけれど、もちろん別料金)インストラクターに付き添われて、ウエットスーツを着た大人たちが、いるかの背中に乗せてもらい大はしゃぎしていた。
部屋はやはり写真よりも小さかったけれど、バルコニーの下に広がる海の眺めは、想像以上にすばらしかった。ちょうど半島の先っぽに位置していて、視界の左端に小さな灯台が飾り物のように立っている。
そして何よりも海の美しさ。これもまた、カラー写真にこれでもかの着色をしたみたいに、ドッキリするほどエメラルドブルー。なだらかな地形なのか波の音も柔らかく、私の疲れた心を優しく撫でてくれる。
「あー、来てよかった・・・」


その後サンドレスに身を包み、遅めのお昼ご飯を食べに、反対側のビーチに位置するレストランへ。
まるで映画に出てきそうな風景にすっかり溶け込んだ気分の私たちだったが、たった一つ小さく失望する。と言うのも、予想はしていたのだ。飲み放題で出す飲み物がどの程度のものなのか。
私はカクテルなどのミックスドリンクは飲まない。と言うより、ほんの食後にシングルモルトやコニャックをたまにいただくことはあっても、その他のハードリカーはいっさい飲まないのだ。従って飲むものはワイン、ほんのちょっとビール。
ビールはコロナだから、飲めるも飲めないもないのだが、問題はワイン。なんちゃってシャンパンや、サングリアにでも使いそうな安物ワインは、さすがに口に出来ない(一応飲んではみた、が・・・)。かと言ってお金を払うからと言っても、あるのはボトルワインだけ。
回りでは、いんちきくさい赤や青の飲み物を、がんがんおかわりしている人たちばかり。彼らにとっては、そしてビールを水のようにがんがん飲めるような人たちにとっては、これはなんとお得なパッケージだろう。
まあ良い。幸い食べ物はなかなか美味しい。新鮮な魚介類も豊富にそろえている。ディナーで美味しいワインを開けることにしようと、コロナで茶を濁した。


夕方外のジャグジーにつかりながらサンセットを眺め、さらっとした夜風に心を預けていると、幸せとはこんなちょっとしたことなのだなぁ、と思う。
空気が美味しいとか、風が気持ち良いとか、空がきれいとか、まるで恋におちたばかりの恋人たちのような心境だ。
そしてやはり、これ以上の贅沢は無いなあ、と実感したのは、波の音に包まれながら眠りに着き、また波の音のなかで目覚めること。もうこれだけで十分癒されます!


そして次の日、念願のスパ。
私達は前から気になっていたホットストーン・セラピーと言う。暖めた石を使った全身マッサージをオーダー。
いやあ、気持ちよかった!
まずは美しいスパ専用の敷地内にあるスティームバスやジャクジーで体を暖めほぐしてからトリートメント。スパでのサーヴィスを受けるとその日は、その中で一日自由に過ごせる。休憩所でうとうとしたり、設置されているバーで自由にお水(中でもきゅうりの浸かったお水ってのがなかなか美味しかった。すごくリフレッシュする。家でもやってみよう)お茶、フルーツや健康的なクッキーをつまんだり・・・なんだか時間の存在を忘れさせられる不思議な空間なのだ。


そしてホットストーン・セラピー。
まず最初に、背中側から攻めて、途中で仰向けにされると、チャクラ(体にある7つのエネルギーポイント)に沿って石を置いていく。
なんだか心と体が全てのしがらみからが開放されていくような気分。リンパ腺を集中的に暖めるのも気持ちよかった。そして香油を使って第3の目の辺りを両掌でぐっと押さえられる。
アロマセラピーとアユールヴェータを思わせるこの単純なそして小さな行為で私の意識はどんっと奥の方までもっていかれた。いきなり、こんなにー!ってくらい、未知との遭遇も可能かと思われほど深くリラックス。
全て終わった時には、まるで雲の上を歩いているみたいにふわふわな気分。
いやあ、ありがとうございます。


その他あらゆるフェイシャル、そしてMoon&Star Massageと言って、波の音を聞きながら、空に月と星を仰ぎながらのマッサージなど、都会では不可能なものまで、やり始めたらきりがないほどの盛りだくさん。
ただし、これは私たちの不覚とするところ。予約がいっぱいで、思ったようにトリートメントが受けられなかった。事前にもっと下調べをして、それこそこちらから予約を入れるぐらいの覚悟でないといけない。
ああ、あとせめて、もう1日長くいられたら・・・と後ろ髪引かれる思いで帰っって来たしだいです。




そしてもうひとつ、悔やまれるのがツアーで参加した小さな漁村の島へ行くクルージングシップ。
美しい小さな漁村に心引かれ、往復45分ずつで後は殆どフリータイムと言う言葉を信じ、乗り込んだ船はディスコティックのお祭り船。
人々は朝っぱらから、これでもか、と安酒を飲み、おまけに“テキーラ・タイム”などと言ういっき大会までも受けられ、頭も心も痛むくらいの爆音にさらされること数時間。確かにとってもピースフルで素朴な島は涙が出るほど美しく、来たかいがあったものと思えはその矢先、お買い物ツアーと称して1時間(私は一人ビーチに残り、桟橋で集合することにした)お昼ご飯で1時間半、正味合計2時間半の滞在のみで後はずっと船の上で乱痴気騒ぎ!
私は爆音に疲れ、終いには、こんなことに大切な一日を費やしてしまったことに腹を立て、やっと船から開放される頃には超不機嫌。
やられた・・・しかし素敵な島を発見したので、今度はウォータータクシーでも使っていってやると、心に復讐の炎を燃やして帰ってきたのであった。




それでも、この大都会NYに帰ってきてなお、私の中に残り、私を癒し続けてくれるのは、やはりあの美しい海の色、空の青、波の音、潮を含んだ優しい風なのだった。
朝7時に起きてモーニングをルームサーヴィスで頼み、朝日に輝く海を見ながらの朝食。
朝夕の海岸の散歩。暮れゆく夕陽の赤に全身を染められながら語り合うひと時。
特別なものなんて何もいらない。自然の偉大さ、その寛大さに改めて頭が下がる思いでした。



また行くぞ、カンクーン!




羨ましいお話。。。
NY在住16年(そろそろ17年?)Satomi が送る column from NY*















NYを出るといつも思う。人がやわらかい。
人がやわらかいって言うのは、心に余裕があるってことかな。自分を楽しんで生きてるって事かな。
通りで人と人の目が合えば、自然と微笑みあう。目の前でバスが行ってしまっても、この世の終わり的悪態なんてつかない。



NYの人たちはとんがっている。街全体がびんびんとしたエネルギーで今にもはちきれそうになっている。
忙しくて、いつも時間に背中を押されていて、だから合理的に、より狡猾に生きようとする。

無駄なんてとんでもない。何を持って無駄とするかは人それぞれ、時と場合によるけれど。その時、自分のプライオリティから外れていると判断されたものは、もしくは単刀直入に、自分に利益をもたらさないと判断されたものは、ばっさりと切り落とされる。
タイム・イズ・マネー、時間の無駄はエネルギーの無駄。

NYの人たちは、自分では充実した人生を送っていると思っている。選び抜かれたものに囲まれた自分は選び抜かれた人間?であろうと日々勤める。
それは決して悪いことじゃない。はっきりとした目的を持つのであれば、それは手段だ。


それに対して、無駄と判断される人や事柄が発生する。
かつて私は傷ついた。人を人とも思わぬような態度、もしくは存在そのものを無視されるたびに、心の中でこっそりつぶやいた。  
「いまにみてろ」

でもいつの間にか、そんなことを心に誓ったことさえ忘れてしまってた。
忙しいのだ。二輪車をこぎ続けるのと同じ、止まったら転ぶ。転んだらまた、私は切り捨てられる側になってしまうのだ。だから必死でこぎ続けた。でもそうして、一生懸命走り続けているうちに、私はつんつんとんがった人になっていた。
相手に対して失礼なことを言っても、しても、なんとも思わなくなっていた。  
「だって私は忙しいんだから」




時々意味もなく涙が出た。「全て上手く行ってるじゃん。私、頑張ってるじゃん」
なのに涙は止まらなかった。押し込められてた気持ちが涙の道を通って溢れ出す。

分かっていた。いくら忙しいからって、大切な人にさえ優しい言葉を掛けれない自分のこと、ちょっとしたことに、イラッとしてしまう自分のこと、なんとも思わないわけないじゃん。いつしか私の心を被い尽くしていた棘が、つんつんと自分自身を刺していた。

そんな時、行きたくなる場所がある。何もせず、ただそこにいるだけで、心がぽわんとやわらかくなって、まあるくすべすべとしてくる、そんな場所。すると大きく深呼吸がしたくなって、すっからかんになっった頭と心にごっそりと酸素をおくりこむことができる。気がつくとちょっぴり元気になっていて、「もうちょっと頑張ってみよう」と思えるようになる。


今回は、こうして幾度となくお世話になっている、私のお気に入りの場所、マイ・ヒーリングスポットをご紹介します。




マンハッタンの真ん中にどーんっ!と横たわり、豊かな緑と水によって私たちの身も心も癒してくれるセントラルパーク。私はこの偉大なる公園に足を向けて眠れません。(頭を東に向けて寝てるから大丈夫だー)私達は、このコンクリートジャングル、マンハッタンにて、大気汚染の問題しかじか、セントラルパークなしには健康な生活を続けていくのは無理でなんじゃないかと思う。緑は酸素を作り出してくれるだけでなく、私たちの心も癒してくれる。水は心の鏡、そしてその汚れを浄化してくれる。

この敷地の中に、私が思うところの聖地あり!って言ったら大げさかも知れないけど、「いい気が漂ってるんだよねえ」と言う、気持ちのいい場所があるのだ。


休日には家族連れやカップルでにぎわう(だから私は平日を好んで行くけれど)ボートハウス周辺には、素敵なスポットが盛り沢山。
まずはボートハウスのちょい手前に大きな柳の木(日本のとは違って、かなりの大木なのだ)が並ぶ芝生の岸辺。私はそこでよく、友人たちとピクニックもするし、先ほど申したように、ただひとり、ボーっとしにも行く。夏場だったら午後4時ごろが最高。柳の向こう側に太陽が傾いていくなか、揺れる枝葉の間からの木漏れ日がきらきらと頭の上に降り注がれる、すると心を騒がしていたあらゆるものが、光の粒の中に分散されていく。また水辺に下りた光はダイアモンドの塊みたいに輝いて、それ自身、太陽の恵みに感謝するよう水面を震わす。
いつも目には見えない風の動きも、こうして木々や水の揺らめきを通して私たちに語りかけてくる。
「ここにいるよ。いつだって、ここにいるよ。」

私はいつも思う。どうしてこんなに素敵なことを、いとも簡単に、それも頻繁に、忘れてしまうことが出来るのだろう?



ボートハウスから遠ざかるように、池をぐるりと回っていくと、古い橋が架かっている。この真ん中に立って、西側と東側をじっくり見比べるのが好きだ。西側には、美しく設計された池と緑の向こうに、かのジョン・レノン&ヨーコ・オノが住んでいた高級マンション、ダコダハウスが聳え立ち、そのやや左手には、この世の財力をひけらかすようにトランプタワーが、夕日を後光のように浴びている。

打って変わって東側には、木で作られた田舎風の休み場が池の端にひっそりと立ち、恋人たちや子供たちを迎え入れる。そしてボートハウス。ヨーロッパ調の白いビルディングにはダイニングとラウンジ・バーがあり、そこではしょっちゅうだれかの結婚パーティーが行われている。白いウエディングドレスの花嫁を囲む色とりどりのドレスを着た女性たち。こちらまでその幸せ感が伝わってきそうだ。


そこからやや北へ上がり、シェイクスピアの庭の季節の花を愛でてから石の城へ向かう。
高台に聳え立つ、でもこじんまりとしたその城からはまた別の池が見下ろせる。そこには何世帯もの鴨が生息していて、つがいになってすいすいと水面を泳いでいる。所々、水面から顔を出した岩のうえには亀が甲羅干し。そんな風景をぼんやり見ていると、心の中でもつれていた何かが、ほろほろとほどけてくるような気がする。



セントラルパークにはまだまだ素敵な場所があるのだが、ここからずんっと南に飛んで、バッテリーパーク。

あの自由の女神が拝める、マンハッタンの端っこだ。

ここで眺める夕日は格別。真っ赤に熟れた太陽がじわじわと空を染めていく。沈んだ後も、オレンジから赤紫、青紫、藍色と、その色を変えていく水平線を眺めながら、「ああ、太陽は消えたんじゃなくて、私の視界の向こうへと移っていったんだ。実際動いてるのは地球に立つ私側だけど・・・」などど、あらためて地球は丸いのだと感嘆したりする。

海の上を行き来するフェリーを見ながら、自分の中で色んなものが繋がって結ばれていくような気持ちにもなる。
夏場だったら、アウトサイドカフェでワインとフライド・カラマリ(日本で行ったらイカリングのから揚げって言うんでしょうか?)なんぞつまみつつ、この一大イヴェント観賞することも出来るのだ。



そして今や我が近所のプロスペクトパーク。はっきり言って、セントラルパークに比べると色気に掛けるというか、朴訥というか、しかし豪快に空を仰ぐ大木がわんさとある、時と歴史を感じる公園だ。

家を出て目の前の入り口を入っていくと、だだっ広いフィールドが現れる。何組かのチームがサッカーを楽しんだり、馬みたいに大きな犬を走らせたりしてもなんともないくらい広い野原だ。その真ん中に小さい古墳のように盛り上がった丘がある。その上に立つ、数本の巨木が私は好きだ。

特に夕暮れ時、傾く太陽の中一番最後まで日が当るのがその場所で、極限までやわらくなった夕日に身を包んだ姿は神々しいとさえ言える。多少肌寒くても、毛布とワインを持って、最後の最後まで粘っているのが私だ。



ああ、他にも、リヴァーサイドパーク、グリニッジヴィレッジのW4ストリートの7アヴァニューから西側、ブロードウェイの9ストリート辺りから眺める、午後の日差しを浴びたクライスラービルディング、などなど・・・全て人に作られた人工的なもので、グランドキャニオンの大自然みたいなパワーはないのかもしれないけれど、こまめに足を運べる便利さから言ったら救急病院みたいなもの?


ストレスと、そんな素敵なスポットに溢れるNY。その強烈なバランスに私は魅かれているのかも。






お久しぶりでした。
NY在住16年 Satomiが送る column from NY*





先月より定期的に投稿してくれることになりました。NY在住16年 Satomiが送る column from NY*  ライターとしても活躍する彼女のスパイスの効いたコラム、お楽しみ下さい!



いつまでも若く、美しくありたい。
それは太古の昔から、女性にとって(最近では男性にとっても)止むことのない願望であった。

それは未だ解き明かされぬピラミッドの謎的秘密の手法を屈指した、あのクレオパトラしかり、人の生血によって不老の人生を得たドラキュラしかり。そしてこの現代では、科学と医学の進歩、そしてそれに対する人々の考え方の変化によって、美容整形が一般化されつつある。

整形手術。

昔は一部の芸能人 ー顔売るのが商売なんだから、そりゃあ金も掛けるでしょうーの特許だった美容整形が、なんと身近になった今日この頃よ。



私の現在の職場、The Modern は、MoMAの中にある、フレンチ・ダイニングである。
レギュラーな客層は10パーセントの裕福な若者、10パーセントの観光者、40パーセントの金持ちゲイ・ピープルとセレヴ、そして40パーセントの金持ち老人フロムーアッパー・イースト、と言った割合である。
そしてその大半を占める金持ち老人達の内、女性の80パーセントが見るも無残なプラスティック・サージェリー(美容整形手術)フリークなのであった。

何故悲惨なのか?

私は別に吉容整形反対主義兇任呂覆い掘反対に、いくつになっても女性としての美を追求する姿勢には心から共感する。ただし、それがただの自己満足なのではなく、傍目から見ても若く美しくあればの話だ。

私はつい、昔見た汽屮薀献覩兇箸いΡ撚茲離掘璽鵑鮖廚そ个靴討靴泙ΑH狃達の姿は長年繰り返された手術の結果、人間らしさをを失い、殆ど妖怪化してしまっているのだ。
人の肌というものは、皺がなければ、弛みがなければ若く見えると言うものではないという事をあらためて知らされた。溌剌とした若々しい肌は、皮膚の下にある筋肉が十分な脂肪と水分を保ち、張りを持って作りあげられるものなのだと人々に証明するみたいに、蝋人形の肌のようにつるりとし顔に、シャネルや、ランコムのコスメティックを上乗せする美女達・・・

ちなみに彼女達は笑えない。

一緒に居る夫達は彼女達の妖怪さに気付かないのだろうか?やはり長い年月を掛けて少しずつ変化してきたものに見慣れてしまっているのか?それとも夫婦揃って何か幻想のようなものをそこに見ているのか?


たしかに、お肌の曲がり角など、とっくのとうに通り越した私など、最近になって痛く実感するのは、今まで当たり前にあった若さが、少しずつ失われていくのを見つめ続ける恐怖である。 それに比べれば、昔、「目がもっと大きかったら、鼻がもっと高かったら、額がもっと広かったら」などなどと、鏡に向かってぼやいていた事などほんの戯れごとに思えてくる。
それでも今はまだ、化粧水ぐらいしかつけなかった私が、美容液やらアイクリームやらにお金を注ぎ込み始めたに過ぎない。しかし正直言って、10年後20年後に、「美容整形?興味ないわ」と言い続けているかどうか、ちょっと不安ではある。
ちなみに美容外科技術は、驚くほどに発達し続けているらしい。だとしたら、毎日The Modernでお目にかかる妖怪的美人さん達は古い技術ゆえの産物とも言えるのだろうか。



ちなみにうちのお客の妖怪美女達の最近のブームはキャサリーン・ゼッタジョーンズ。

つい先日も全く同じ顔したお客さんに 「Nice to see you again?またお会いできて光栄です」 と言ったら、
「あらここに来たの今日が初めてよ」 と言われてしまった。

しかし肝心なのは、キャサリーン・ゼッタジョーンズ本人も来たが、似ても似つかなかったぞ、ということだ。
大きなお世話かもしれないが、自分の美しさを生かした美容整形に留めておいたらどうだろう?しかし長年掛けて変えていくうちに自分の本当の顔も良くわかんなくなっちゃたのだとしたら、仕方ないのかな。

 
自分の顔や体には自分で責任を持って、と思えば、人からどう思われようと、人からどう見られようと、自分が満足して幸せならそれで良いのかもしれない。
私自身はまだ、尻込みしているのか、考え方に肯定的になりきれないのか、まだ美容整形なるものを手を振って賞賛する事は出来ない。
出来る限りは自分の努力で、減少しつつあるこの若さを、引っ張れるだけ引っ張って、美容整形の進歩を待つか。


ついこの間友人から聞いた話だが、実は美容整形なるもの、冒頭で述べたエジプト、クレオパトラの時代から存在していたものらしい。そしてまたその頃の技術の高度さが今見直され、研究が進んでいるのだそう。

さて、その技術とは、顔の筋肉の中に金の糸を遠しこめかみからそれを釣る、その後年を取り、より弛む度にその糸を引き上げる、と言う単純な手法。しかし、一度糸を通してしまえば二度と手術をする必要はなく、また筋肉の中を通る金の糸の成分が溶け出して細胞を内側から活性化する為、皮膚を切り取ったりする必要がないし、見た目にも自然なのだそうだ。もしも数十年後にその技術が完成されていたら、試してみてもいいかも。なんて心の内で思っている私もここにいる。


実は私、つい先月レイシック(視力矯正レーザー・サージュリー)を受けた。この決断を下すにも長年掛かったし、その間10人を越える友人知人がレイシックを受け、熱烈に私に賞賛した挙句のことだった。
そして今、私は毎日、毎瞬間、レイシックを受けれた事に感謝している。私の視力が落ち始めたのが小学校の3年ぐらいだったから、2・0という視界を持つのは30年以上ぶりだと思うと、感慨深い。
それを思えば、世の中の、自分の顔に人一倍のコンプレックスを持っている人間が美容整形によって救われる事と私のレイシックにどれくらいの違いがあるだろう。


やはりこれはかなりセンシティヴな問題ですな。



NY在住16年 Satomiが送る column from NY*



私は人から年齢相応に見られたことが無い。

子供時代は大きな体とこましゃくれた顔で、まだ幼稚園生だというのにバスの運転手に運賃を払えと喧嘩を売られ、気の強い母は良くその喧嘩を買ってはバス内で押し問答を繰り広げた。そのまま一度は乗車したバスを降りた覚えもある。

中学校時代には大学生にナンパされ、中学生だと分かると、「なんだ、中坊かよ!」と露骨にガキ扱いされた。高校生の時はバイト先の喫茶店で二十六ぐらいに見られ、年上の方々に勝手に敬語を使われた。

そんな老け顔の私に一体何が起きたのだろう?
気が付くと私はいつでも実年齢よりも若く見られ、その年差はここ最近開くばかりだ。


はっきり言って嬉しい。

嬉しいと思う事自体が年を取った証拠なのは百も承知で、やっぱり嬉しい。



アメリカではお酒を買う時に写真つきのIDの提示を求められる。
勿論向こうもよぼよぼのお爺さんにIDを見せろとは言わない。あくまでも(こいつ二十一以上かあ?)と売る側が思った時だけである。そして私の場合、信じられない事に九十パーセントID提示を要求される。

人によっては(何よ、顔が出ないと思って言いたいこと言ってー)とか思われると困るので、これはあくまでもアジア人がほかに人種よりも若く見られることを計算に入れて頂きたい。
私だって今年で---歳、人並みより大分劣るけれどそれなりの自覚もある。まさか自分が二十歳以下に見えるとはこれっぽっちも思っていない。それでもたまに何も言わず酒を売られると、(私も年を取ったって分けね)と、密かにショックを受けていたりするのだが。


ところが先日近くのデリでビールを買った時の事、前々からIDを見せろと言われ、しかしたまたま手元に無かった私は

「あんた私をいくつだと思ってんの?三十八よ!」  と言い切り売ってもらっていたのを覚えていた店主が、

「今日はIDなしはダメだぞ」  と厳しい顔をする。


私は驚いた、この人は私の言ってた事を信じていなかったのだ。
しかし、うっしっし、私はその日運転免許証を持っていた。(ほーら、これでどうだ)水戸黄門の印籠よろしく、思いっきりもったいぶってそれを差し出した。次の瞬間、相手は私の予想しなかった言葉を口にした。

「僕と同じ歳だ」

愕然とする彼の顔にはその場には似合わない深い悲しみが漂っている。

「えっ!」

同じ歳の私が戸惑うことなく「おじさーん、これ頂戴」と呼びかけられる風情の彼はアラブ系である。所謂宗教問題で迫害を受けて家族で移民してきたのかもしれない。だとすればあらゆる犠牲を強いられた半生であったのだろう。
父親が身を粉にして手に入れたこのデリで子供の頃から働かされ、学校も満足に通わせてもらっていないということもある。彼に青春はなかった。様々な憶測が私の頭をよぎった。


苦労してきたのだこの人は。


そう思ったら自分が若く見えることの意味が、ちゃらちゃらと生死の問題などとは程遠い生き方を表しているような気がして急に恥ずかしくなった。
彼には妻が居る、育ち盛りの子供が三人も居る、その大事な家族の生活を両肩に背負う彼の十分の一も、何かに責任を負うことなく生きている私が若く見えるからと言ってそれが何であろう?


彼が私に見たものが本当は何だったのか私には分からない。
ただあの悲しそうな顔が決して私に向けられたものではないことは確かだった。




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